鷲(わし)のように翼(つばさ)をかって上ることができる   イザヤ 40 27~31

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I Intro

  先週、ジョギングをしに、スポーツジムに行きました。”The voice of truth” (真理の声)という歌を聞きながら走りました。この歌の内容は、世の中にある色んな声が私たちに語りかけるけれど、わたしはただ真理の声のみに耳を傾(かたむ)ける、といったものです。この歌の歌詞をじっくり噛(か)み締(し)め、神様に自分を捧げて、祈ろうと思い、わたしは目を閉じました。すると突然(とつぜん)、足がベルトからずり落ちてしまいました。転(ころ)びはしませんでしたが、あわや大惨事(だいさんじ)といったところでした。ベルトに戻った私は、気を取り直してジョギングを続けました。もちろん、今度はしっかり目を開いて走りました。

  走りながら、自分に起こった事を思い返してみました。私は、目を閉じたために、方向感覚(ほうこうかんかく)を失(うしな)い、ふらふらと道から外れて行ってしまったのです。でも、目を開いていれば、自分の立ち位置(いち)がはっきりと分かり、直進(ちょくしん)していくことができます。目を閉じている時は、自分でも気付かないうちにだんだんと道から外れていってしまいます。私たちの毎日もこれに似ているのではないでしょうか。神様に焦点(しょうてん)を合わせている時は、どんな状況に陥(おちい)った場合でも、正しい道を歩いていくことができます。でも、私がジョギングをしながら目を閉じたように、神様から焦点を外(はず)すと、私たちはゆっくりと神様の道から外れていってしまうのです。最初は全く気付かないかもしれません。でも、注意をしていないと、時間が経(た)つにつれて、どんどん神様から離れていってしまいます。神様から離れてしまった時も、私たちはすぐに神様の元(もと)に戻ろうとはせず、神様に文句(もんく)ばかり言ってしまいます。イスラエルの民も同じことをしてしまいました。彼らは、神様から離れ、偶像礼拝を始めたのです。神様は、イスラエルの民の気をひこうと、彼らを囚(とら)われの身としました。しかし、それでもイスラエルの民は、神に立ち返るのではなく、神様に文句を言い始めました。これがイザヤ書40章で語られていることです。

II. 再度、神へ焦点を合わせる (27~28)

a.         簡単に気をそらす民

  イザヤ書は、預言者イザヤによって、イスラエルの民がひどい苦境(くきょう)にあった時代に書かれました。イスラエルの民は、アッシリア人によって囚(とら)われ、その支配下に置かれていました。アッシリア王ネブカドネザルは、イスラエルの民を強制連行(きょうせいれんこう)し、母国での快適(かいてき)な生活を奪(うば)いました。イスラエルの民にとって、この捕囚(ほしゅう)生活は永遠に終わらないものに思えたことでしょう。

  では、ここで、27節を見てみましょう。イスラエルの民の不満(ふまん)の声が聞こえて来るようですね。イスラエルの民の歴史を見ると彼らが何度も同じような不満を漏(も)らしていたことが分かります。民数記20章には、イスラエルの民が荒野にいた時、神が奇跡(きせき)をもって水を与えて下さったにもかかわらず、民は、水が足りないと文句を言っていたことが記(しる)されています。それに、神様が荒野で与えて下さった食べ物にも難癖(なんくせ)をつけていました。彼らは色んな種類の食べ物が食べたかったのです。神様がイスラエルの民を驚くべきみ業をもって奴隷生活から解放(かいほう)してくださったにも関(かか)わらず、彼らはまだ不満をたらたら言っていたのです。イザヤの時代にも同じように、イスラエルの民は文句ばかり言っていました。彼らは、神様に泣きついても神様は聞いてくれないと勝手(かって)に決めつけました。神様は彼らの正しい訴(うった)えを見過ごされていると感じていました。 イスラエルの民は、アッシリアの支配下から解放されたかったのです。アッシリアが打ち負かされることを願っていたのです。彼らは、神の正義のみが完全だということを忘れてしまっていたのです。

  私たちもこのイスラエルの民とあまり変わらないと思いませんか?私たちは、試練(しれん)にあう時、同じ様な行動をとってしまいます。苦難(くなん)を取り除(のぞ)いて欲しいと思ってしまうのです。我々は、自分の罪の報(むく)いは受けたくない、ただ祝福だけが欲しい、と思いがちです。苦難は欲しくありません。苦難は取り除いて欲しい。しかも、今すぐ取り除いて欲しいと願います。

  イザヤは、イスラエルの民の不満を疑問形(ぎもんけい)にして投(な)げかけました「ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張(は)るのか。『私の道は主に隠(かく)れ、私の正しい訴(うった)えは、私の神に見過(みす)ごしにされている。』と。」イザヤはここで、イスラエルという彼らの呼び名を使っただけでなく、イスラエルという名の由来(ゆらい)になった「ヤコブ」という名も使っています。ヤコブの名前は、天使との争(あらそ)いの後、「イスラエル」に変えられたのです。これによって、イスラエル人は、神が、ヤコブと結んだ神の民との契約を思い起こされたのです。イザヤの疑問というのは、「神があなたたちと結ばれた約束を覚えていないのか。何度神があなたたちを救い出してくださったか覚えていないのか。なぜ、今になって神があなたたちのことを忘れてしまったと思うのか?」というものでした。もちろん、神は約束をお忘れではありませんでしたし、叫(さけ)びも聞いてくださいます。イザヤはそれから28節で、神の約束を思い出すよう促(うなが)しています。

b.         私たちが知っている事に立ち返る (28節)

  イザヤは、再度、読者(どくしゃ)の注意をひこうと疑問を投げかけていますあなたは知らないのか。聞いていないのか。」これは、反語的(はんごてき)な質問です。もちろん、イスラエルの民は「聞いた事があり、知っていた」のです。彼らは何度も繰(く)り返し神様からの驚くべき恵みを体験していたのです。しかし、イザヤはここで神のご性質(せいしつ)を並べ、民が置かれた状況を見るのではなく、神様を見上げるように穏(おだ)やかに促(うなが)しています。イザヤはまた永遠」という言葉を使い始めます。神は人間と違って、時間に縛(しば)られないお方です。神は時間が生まれる前からおられ、そして時間が終わった後も存在なさいます。この神だけが唯一、永遠の神なのです。これを聞いて、イスラエルの民は、神が人間を遥(はる)かに超えた方である事を再認識(さいにんしき)しました。私たち人間が神様の全てを、また神の全ての道を完全に知る事ができたら、神は神ではなくなり、私たちが神になってしまいます。イザヤは、ここで神の道は私たち人間の道を遥(はる)かに超えていることを思い起こさせているのです。神は全てをご存知で、全てを理解し、神の民にとって何が一番いいものであるかもご存知です。神には制限(せいげん)がありません。神は、永遠の神なのです。

  イザヤが述べている神の2番目のご性質は、神こそが神であり、わたしたちの主であるということです。イザヤは、ユダヤ人が言いたがらない神の名前を用いました。それは、ヤーウェです。「ヤーウェ」とはへブル語で『私は~である』もしくは、『私はある』という意味です。ヨハネによる福音書でイエス様は7回『私は~である』とおっしゃいました。これは、他に神はないということを示しています。神だけが唯一の永遠の神なのです。

  イザヤが神のご性質として3番目にあげたのが、万物の創造主であるという点です。神は地球を造り、人間も造られました。神だけが唯一、永遠の造り主なる神なのです。そして、神は全ての星を造るという私たちの考えを遥(はる)かに超えたことをなさり、さらに地球を造り、そこに生き物である人間と動物を置かれたのです。神はお疲れになる事はありません。これが第4の神のご性質です。神の力には終わりがなく、決して弱くなることもなく、力が足りなくなることもないのです。

  このような神のことを、イスラエルの民は不満におもっていました。彼らの不満は、神の力が足りなくて彼らを助けられないと考えていたことを示しています。イザヤはそこで、神の第5のご性質をあげ、この不満を止めさせようとしています。その神のご性質とは、神の知恵には限りがないということです。神の知恵はあまりにも深すぎて、わたしたには究(きわ)めることができません。つまり、イスラエルの民は神の道を完全にわかることは出来ないし、また完全に理解できるようになることを期待すべきではないということです。但(ただ)し、これは、私たち人間が、神の教えを理解するために、み言葉を学ぶべきではない、という意味ではありません。それは、人間には決して完全に神の知恵の深さを究めることは出来ないということです。これは、私たちに感謝の気持ちを起こさせることであっても、不満に感じることではありません。

III 神は私たちの必要を満たして下さる (29節)

  イザヤは、イスラエルの民に神のご性質を思い起こさせた後、神が彼らの為にして下さる事を教えています。29節でイザヤは、神は弱い者に力を与え、力を失っている者に大きな力をお与えになると単純明快(たんじゅんめいかい)に語っています。ここで、神と人間の対比(たいひ)に注目してみましょう。イザヤはここで、イスラエルの民の現状(げんじょう)を詳(くわ)しく述べています。彼らは圧政(あっせい)に疲れ、力はどんどん弱くなっていっています。それに対して、神は永遠に決して疲れる事のないお方なのです。そして、神は御自身が疲れない方というだけでなく、どんな状況におかれていても、必要な人には力を授(さず)けることのできるお方ということに注目しましょう。完全に疲れきって、力を使い果(は)たした人に対しても、神は強さと力を授けることがおできになるのです。神は、私たちが現状を乗り越えていくことができるように必要なものを与えて下さいます。

  苦しい状況にあるとき、私たちは神に乗り越える力を願い求める代わりに、困難(こんなん)から救い出されることを願うことが多いのではないでしょうか。苦境(くきょう)を乗り越えるための助けが欲しいというよりは、神が苦境から自分を取り除いて下さることを望むのではないでしょうか。しかし、時に困難や痛みこそを我々は最も必要としているのです。神は、その状況を通り抜(ぬ)けることができるように必要なものを備えて下さいます。ローナは、腰(こし)の骨を折ったことがあり、ストレスが溜(た)まると腰がひきつって、酷(ひど)い痛みを感じます。この痛みは、足を突(つ)き抜(ぬ)けて、つま先まで及(およ)びます。治療(ちりょう)に行くと、セラピストは、マッサージをして筋肉(きんにく)を動かし、骨を元(もと)の位置(いち)に戻します。ローナは、治療中(ちりょうじゅう)の痛みをセラピストに訴(うった)えることがあります。でもそこでセラピストは、ローナに我慢(がまん)するように言います。いくら痛い治療でも、治療(ちりょう)が終われば、腰の痛みは格段(かくだん)に良くなるからです。ローナは帰宅すると決まって、治療はとても痛かったけど、腰(こし)は随分(ずいぶん)良くなったと言います。これと同じように、問題の解決には時に痛みを伴(ともな)います。でも、痛みを伴う健康的な解決法(かいけつほう)は、痛みを伴(ともな)わない不健康(ふけんこう)な解決法よりずっと効果があるのです。神は、わたしたちをどんな状況からも救い出すということを約束しておられるのではありません。しかし、神は、わたしたちがどんな状況にあっても、その時必要としている最善のものを与えると約束しておられるのです。

IV. 状況を凌駕する (30−31節)

a. 人間の弱さ

  イザヤはここで、イスラエルの民に神のご性質を説き、わたしたちがどんな状況にあっても、神は喜んで必要なものを与えて下さる方であると言っています。イザヤは、どんな状況にあっても、主の目に喜ばしい生活を送る方向性を示しているのです。イザヤは、まず、イスラエルの民でも気付いていることを述べています。つまり、彼らは限界(げんかい)のある人間であるということです。31節でイザヤが使っている「弱い」「疲れる」という言葉は、29節で使っている言葉とは違います。29節での強調点は、日常(にちじょう)生活においてであり、「疲れ」も日常生活から出る疲れです。しかし、30節でイザヤは、通常(つうじょう)、一生のうちでも最も生命力に溢れ、力がみなぎり、無敵で強健な「若者」には似(に)つかわしくない動詞(どうし)を使っています。このような若者でも疲れ、力を失うというのです。このような若者が感じる疲れというのは、砂漠(さばく)を歩き渡った時のような疲れです。彼らは疲れ切り、一滴(ひとしずく)の力も残っていません。最強の人間であっても、力には限界(げんかい)があるということです。彼らも疲れ、つまずき倒(たお)れさえします。30節は31節と直接(ちょくせつ)関係があります。つまり、疲れきった強健な若者と主に望みをおく人とを対照的(たいしょうてき)に書いているのです。有(あ)り難(がた)いことに、31節は、わたしたちがどんな状況にあるときでも希望を与えてくれます。

b.         聖なる力 (31節)

  i.            約束を受けるコンディッション

  イザヤはここで、驚くべき神の約束を教えています。神から新しい力が与えられる約束です。しかし、この約束を受けるには一つの条件(じょうけん)があります。神の約束を受け取りたかったら、神を待ち望まねばならないということです。ここで使ってある「待つ」という言葉は、この節全体のキーワードになっています。神を待ち望むということは、現状にあって神の時を待つということです。しかし、不満をもって待ち望むということではありません。神は私たちに何が最善かをご存知である、という確信を持って神を待ち望むのです。わたしたちは神に完全な信頼を置きます。神がどのようなみ業をお選びになるか、どのように働かれるか、何を私たちに教えようとしておられるか、喜んで神に完全にお任せします。このように完全に任せるには、私たちは自分が弱い者であると認め、また永遠の神以外に行くべき所はないと認めることが必要です。私たちは、現状を乗り越えるためだけではなく、残りの人生のすべてにおいても神に信頼し、神に完全に頼(たよ)りきると宣言するのです。「待つ」ということは、必死(ひっし)になって自分で努力し、自分の力に頼って解決しようとするのを止(や)め、私たちに代わって素晴らしい事を行ってくださる神のみ業に期待(きたい)をするということです。そして、神を待ち望むというのは、たった一回で終わる事でも、一日で終わることでもありません。それは、毎日、継続(けいぞく)して神との交わりを持ち続けるということです。タラントの教えにあるように、小さなことに忠実(ちゅうじつ)である者は、大きなことにも忠実(ちゅうじつ)であるのです。私たちが日々の生活で神に信頼していないのなら、大きな艱難(かんなん)が来た時に、すぐに弱くなってしまうでしょう。それは、毎日の生活でどのように神に信頼していくか、またどのように神を待ち望むかを学んでいないからです。しかし、日々の生活の中で神を待ち望むことを学ぶ時、預言者イザヤを通(つう)じて与えられた神の約束の素晴らしさに気付くはずです。神に望みをおくと、驚くべき希望が与えられます。それは、神のみが本当の唯一の希望の源(みなもと)だからです。私たちがどんな状況に置かれていても、神は私たちに、神様なしでは決して手にすることのできないものを与えて下さると約束していらっしゃいます。

ii.            /高く舞(ま)い上がる約束/

  神を待ち望むとどんな結果になるのでしょうか?主を待ち望む人には新しい力が与えられます。これは、私たちの力が増(ま)すということだけを指しているのではありません。イザヤが31節で使っている「新しく力を得」という言葉には、力が、一つの源(みなもと)から別の所へ移(うつ)されるという意味が含(ふく)まれています。つまり、神を待ち望んでいる時、神は神の永遠の力を必要な人に注がれるということです。神は、わたしたちの弱さを神の力で満たして下さるのです。このみ業はどのように見えるのでしょうか。この章の最後の部分で、それが説明されています。神の力を受けた人は、自分の力に全く頼(たよ)る事なく、高く持ち上げられたような感覚(かんかく)を持つと言っています。21それは、まるで鷲(わし)が翼(つばさ)を張(は)ったときのようなのです。鷲は、上昇気流(じょうしょうきりゅう)によって翼を羽(は)ばたかせずとも、長時間、大空(おおぞら)を飛び回ることができます。鷲は、空気の力によって空中に持ち上げられているのです。同じように、どんな状況にあっても、神に完全な信頼をおく人は、その状況の終わりに至(いた)るまで、神によって持ち上げられたような感じがするのです。神のみ力によって、彼らは持ちこたえ、疲れ果(は)てることもないのです。人生の中には、走り回らなければならない日も時にあります。神が備えて下さったものを成(な)し遂(と)げる為に一生懸命働かなければならないこともあります。しかし、ゆっくり歩く日や、軽(かる)い日も与えられます。人生を通して、全てが上手(うま)くいっている時も、困難極(こんなんきわ)まる時も、非常に気分が良い時も、囚(とら)われの身だと感じる様な時も、どんな時でも神はその状況を乗り越えるに十分な力を与えられます。主を待ち望む時、私たちには新しい力が注がれるからです。

V. 結論

  今日、あなたはどんな困難に直面していますか?あなたの困難は他の人に比べたら軽(かる)いものに見えても、あなたの心には重くのしかかっているかもしれません。私たちの人生の中で最も難しいのは人間関係であることが多いと思います。特に、家族との人間関係が上手(うま)くいかないと苦しいでしょう。それから、仕事で信じられないくらい辛(つら)い思いをする事もあるかもしれません。上司が部下を無下(むげ)に扱(あつか)い、逃げ出したいと思う事もあるかもしれません。あるいは、自分が間違った決断(けつだん)をしたために、その報(むく)いに直面しているかもしれません。そのような状況から神様が救いだして下さる事を望んでいるかもしれません。みなさんお一人お一人が、今どんな状況にいらっしゃるのか、私にはわかりません。でも、神様はすでにあなたの状況をご存知であるということは確かです。

  あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測(はか)り知れない。神の憐(あわ)れみは永遠に途切(とぎ)れることがありません。そして神は、神のみ力をあなたに授けたいと望んでいらっしゃいます。神はあなたを現状から助け出すという約束はなさっていません。しかし、あなたの弱さを神の力で満たすと約束なさっています。そして、神の約束を余(あま)す所なく受け取るには、あなたの側でも信仰を一歩進めて、神へ完全に信頼し、神を待ち望まねばなりません。神に信頼する時、あなたは風があなたを高く持ち上げるような感じを覚えるでしょう。

  あなたはどちらを選びますか?イスラエルの民のように不平を並べて、神に歯向(はむ)かい、神からどんどん離れて行きますか?それとも、決して疲れる事なのない唯一、永遠の神、いつもあなたに力と英知を授けたいと望んでいらっしゃる神に信頼しますか?選ぶのはあなたです。神は、鷲のようにあなたを高く持ち上げたいと願い、待っていらっしゃるのです。

祈ります。

疲れる事なのない唯一、永遠の神を賛美いたします。私たちの状況をすでにご存知ですから、感謝します。どうか神様、もちろん、私達は全能の神様が私たちを困難から救い出すことが出来てくださることを信じています。けど、神様の御心をもっと分かりますようにそんな状況の中に神様の性質を示してください。それで私達はどんな状況にいっても神様が喜ばれるように全能の神様の力によってその永遠の力を私たちに注いで私たちを強めてください。ありがとうございます。この祈りを全知であるイエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。

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