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080731 神様と共に歩む出エジプト

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Notes & Transcripts

神、共にある出エジプト

出エジプト記13:20-14:22

10の災いを通して、神様ご自身が御手を下されて、神の民は奴隷であったエジプトの国から導き出されました。これは一方的な神様のあわれみと御業による出来事でした。イスラエルの民は、備えられた道を、贖いとなった子羊の血を通して、導き出されていきました。

この出来事はイスラエルの民にとって単なる歴史的な事実ではありません。(ie, not just a human memorial)これは、神様の勝利、神様の約束の確かさ、神の民であることの確認、神様への信頼を思い出す、ある意味でのスターティングポイント、いつも立ち返るところです。エジプトに行った時の彼らは、男性の数70人の大家族でした。しかし、今、彼らは、一つの民族として、国として、歩みだそうとしています。エジプトの国でどれだけのまとまりがあったのか。長老たちの存在がある程度まとまりとしてあったことはところどころでうかがい知ることはできますが、国家的なことに順ずるほどのまとまりはおそらくまだ余りありませんでした。少なくとも、国としての存在や経験は今まで無かったわけですから、当然ながら、ちょっと前の17節にあるように、戦いの経験もありません。このことは、イスラエルの民が戦わずして出エジプトした事、イスラエルの民によるところが全く無い神様の大いなる御業であったことを強調していることでもあります。当然ながら、出エジプトで全てが解決したわけではありません。彼らは神の民として歩みだしたのですから。

そして、この、神様の勝利、神様の約束の確かさ、神様の恵みとあわれみあふれる御業の完全さは、神の民として歩みだして行く彼らの只中に、続く箇所を通してさらに確実なものとして、確認されていきます。それは、先ほど読んだところの少し前の13章の17節から始まるのですが、その冒頭で、もう一度、主の五輪在。主の導きがどれほど確かなもので、どれほど現実的なものであったのかが記されています。21節。22節。

そんな彼らに大きな試みが訪れます。14章の1-22節までの出来事です。この出来事の中でわたしたちが注目すべきところは、出エジプトと変わらない、神様の力強い御手の御業です。ここでも、民は、何もするわけではありません。いや、むしろ、恐れのために、主に向かって叫び、モーセに対して訴えています。

あの出エジプトを経験した後でさえ、昼は雲の柱で、夜は火の柱で、彼らの道を照らす主の臨在の前でさえ、彼らは主に向かって叫び、モーセに対して訴えました。

皆さんであしたら、どうでしょうか。

1年間という期間、いろいろな不思議な出来事を通して、エジプト人が苦しんでいるのを見てきました。苦しい奴隷としての生活はその間変わったわけではないのですが、むしろ、さらに苦しめられたりもしたのですが、しかし、同時にエジプト人も苦しんでいるのを見ました。そして、とうとう、不思議な御業を通して、エジプト全土の初子が死ぬ、死んだ、ということを見てきました。まあ、テレビとかがあるわけではないし、一軒一軒回って確認はできないでしょうが、かなり確実な情報として、そのことは一人ひとりにわかったことでしょう。エジプト人の家に行って、金の飾りや銀の飾り、着物などをもらいに行ったので、少なくともそこで嘆き悲しんでいる家族、そこに横たわる死者などは見ているかもしれません。不思議としかいいようがない、命じられたとおりに、羊をほふり、門柱と鴨居に血を塗り、命じられ通りにその肉を食べただけなのに、自分たちは何も無く、しかしエジプト人の初子は死んでいる。そんな中、あわただしい命令の中、食料の準備も十分にできないまま、パン種の入っていないパン貸しを作るのが精一杯で、せきたてられるようにして出発したわけですが、それが、雲の柱、火の柱に導かれながら進んでいるのですが、なんと背後から再びパロの軍勢が迫ってきているのです。約60万人の戦いの経験の無い民を、えり抜きのパロの戦車600に引き連れられて、エジプトの全軍勢が追ってきている民はどうすればいいのでしょうか。みなさんだったらどうしますか?

イスラエルの民が恐れたのは、ある意味当然のことかもしれません。何をしたらいいのかわからない。今までのこと、過去の生活で染み付いているものとでも言うのでしょうか。恐れと無力さとの中で、まだ彼らは、神と共に歩むと言うことがどういうことなのか、わからないのです。

しかし、それもまた神様のご計画のうちにあったことでした。14章の2節から4節を読むと、イスラエル人をあたかも袋小路のようなところに追い込まれたのは、そもそも主ご自身の命令によることです。守護自身が行っておられます。READ3節。

パロが追ってくるように格好の状況を作り出し、それだけではなく、4節にあるように、パロの心をかたくなにし、追ってくるように仕向けたのは、主ご自身です。

エジプトから約束の地に行くのに、一番近道である海沿いの道、ペリシテ人の国の道に、戦いの経験の無いイスラエルの民が戦いを見て、心が変わり、エジプトに引き返すといけない、と考慮して、あえて、ペリシテ人の国の道に導かれなかった神様です。考え無しにやったことではないのは明らかです。また、イスラエルの民が戦うことを求めていないのも確かなことです。それでは、何故、主はこのようなことをなされたのでしょうか。

>BREAK<

出エジプトを読んでいく時に、12章の出エジプトまでを一つの区切りとして、この、13章17節から18章の終わりまでを一つのまとまりとして捉えることができます。19章からはシナイ山における一連の出来事へと移っていきますので(と言っても連続性のあることですが。)、新しいセクションと言えるでしょう。この、13章後半から18章の終わりまでを一つのセクションとして捉える時、そこにおいて、その全体を挟み込むようにして、二つの戦いが記されていることに気がつかされます。一つはこのエジプトとの戦い。もう一つは、アマレクとの戦いです。

READ17:8-13

このアマレクとの戦いも非常に興味深いものです。これだけでも一つの大切なメッセージを私たちに伝えるものなのですが、ここでは特に、神様とイスラエルの関わり、と言うことに注目してみてみたいと思います。

エジプトとの戦いでは、イスラエルは何もすることが求められません。戦うのは神様です。14:21「モーセが手をさし伸ばす」のは一緒なのですが、エジプトとの戦いでは、主が一晩中強い東風で海を退かせ、水を別れさせ、海を陸地とされ、イスラエルの民は(22)海の真ん中の乾いた地を進んでいっただけでした。水は彼らのために右と左で壁となった。とあります。

アマレクとの戦いでは、17:11「モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を下ろしているときは、アマレクが優勢になった。」とあります。

どちらも神様の戦いです。アマレクの戦いも、民が戦っていますが、民が勝敗を握っているわけではありません。しかし、紅海での、エジプトとの戦いにおいては、それさえも求められていないのです。このことからは、私たちは何を教えられるのでしょうか。

まず何よりも、戦いは主のものである、と言う事実です。いずれにしましても、戦いは主のものです。

そして、その戦いで私たちに求められていることは、その主に信頼する、と言うことです。

モーセは13節と14節で語っています。「恐れてはいけない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、今日見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。主があなた方のために戦われる。あなた方はだまっていなければならない。」

そして、15節から18節は、4節での主の言葉を繰り返すように、再び言っています。「私はパロとその全軍勢、戦車と騎兵を通して、わたしの栄光を現そう。パロとその騎兵を通して、私が栄光を現すとき、エジプトはわたしが主であることを知るのだ。」

主の栄光はその勝利の中に現れます。ただ、それは、単なる武力的な強さ、圧倒的な力を見せ付けるのにとどまるものではありません。イスラエルの民は関係ないわけではありません。最後にダメ押しで、エジプトをやっつけておく、と言うことではありません。それを民に見せて恐れさせて栄光を表す、と言うことではありません。栄光を、神様の栄光はどのような時に現れるのでしょうか。主が主であることを知る時。その力強さだけではなく、そのご計画の確かさと、深さと確かさを知る時ではないでしょうか。神の民が神を信頼し、神のご計画の内に、神の民として歩む時に、神が、民の神としてそのご栄光をあらわされるのではないでしょうか。

神の一方的な御業による出エジプトを経てもなお、民は、主のご計画の確かさと、主が彼らのために戦ってくださるのだ、と言うことを圧倒的な力で知ることが必要でした。これを経てもなお、右往左往する民ですが、旧約聖書を通して、何度もこの戦いのことが記されていることを見る中でも、この出来事が彼らにとって、神の民として歩んで行く彼らにとって、その信仰の土台となっていたことを知ることができます。どれほどまでに深い神様の愛とあわれみなのでしょうか。

マルコの福音書では、イエスの栄光の座は、イエスが飲まれる杯、十字架そのものであることが語られています。やはり、一方的な神様の御業です。私たちによるところは何もありません。そして救われたものが神の民として歩み始めた時、全てが順風満帆であるとは限りません。やはりそこに戦いがあります。昔の罪のしがらみとの戦い。先に進んでいくにあたって生じる新たな障害。進んでいくための戦い。しかし、それらは、主の戦いです。すでに、主はご計画を持って、ご自身のご栄光をあらわすために、戦ってくださっているのです。私たちがその栄光を見るのは、主に信頼し、主の備えられた道を歩んでいく時です。民がその備えられた道を歩んでいかなければ、エジプトが波に飲まれることもありませんでした。戦いは主のものですが、特に古い罪のしがらみとは、私たちが戦うと絡め取られてしまうこともあるので、主の戦いが一番なのですが、しかし信頼して進んでいくことが無ければ、私たちは、その軍勢になぎ倒されていくだけです。主の栄光は私たちの信頼のうちに現れます。信頼して備えられた道を歩んでいく時、私たちのために、贖いの子羊となられただけでなく、復活となられたキリストの栄光を見ることができるのではないでしょうか。

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