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080710 神様の初子

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Notes & Transcripts

神様の初子

出エジプト記13:1-16

最後の災いによって出エジプトを果たしたイスラエルの民ですが、彼らにとってそれはまさに、新たな経験の始まり、新しい出発でした。

そんな彼らにまず神様が語られたことは、このことを深く心に刻むことでした。何を覚えるのか。主ご自身が御力を持って自ら彼らを導き出された事実を覚えるように、ということです。

3節.「覚えていなさい。」とありますが、これは単に忘れないように、と言うことだけではなく、心に留める。注意深く心にかける。絶えず念頭に置く。気を配る。と言う意味のある言葉です。何か、あるいは誰かにに対して明確な焦点をあわせる。注意を集中させる。このように、関心と関係を意味する言葉で、受動的ではなく、能動的な言葉であり、さらなる行動につながっていく意味合いのある言葉です。

私たちは奴隷であった。しかし、その奴隷であった地から、その奴隷の家であるエジプトから導き出されたのです。その日のことを、その事実をしっかりと覚えていなさい。覚えている必要があることはそれだけではありません。私たちが奴隷の家から導き出されたその事実だけではなく、それが主によって、主の力強い御手によってであった事実を。主が力強い御手で私たちを連れ出されたから、覚えていなさい。

この言葉は、モーセのスピーチの真ん中でもう一度確認するように、そして、モーセの言葉の最後に出てきます。

9節。16節。そのために、モーセを通して民に与えられた二つのしるしが、3節から16節までのモーセの言葉の中に記されていることです。

一つは、初子。もう一つは、パン種です。どちらも、主のあがないの御業に戻っていくものです。どちらも、8節や14節に記されているように、主のなされたことゆえのものです。
READ。8節。14-15節。

少し余談になりますが、こういう些細なところでも、旧約聖書と新約聖書が、旧約聖書の信仰が、今の私たちの信仰とがイエス・キリストを起点(軸)に連続性を持っていることを実感させられるのですが、私たちが与えられているしるし、イエス様が十字架でなしてくださったことを思い起こすために与えられているものも二つあるんですよね。洗礼と聖餐式です。多くのものが3であったり、4であったり、7であったり、12であったりする中で、この二つだけが2であると言うことに、連続性を感じずにはいられません。

さて、この種が意味していることは、長らく議論の対象でした。今もなお、明確な意味を持っているよりは、いくつかの意味、用いられ方をしていて、それらの複数の意味を説明することが多いです。

伝統的に、ユダヤ教のラビたちの間では、パン種は腐敗や分解を意味するものとして、あまり好意的には見られてきませんでした。イエス様ご自身も、律法学者やパリサイ人のパン種に気をつけなさい、とおっしゃっていました。

しかし、同時にイエス様は天の御国をパン種にたとえて話されもしました。

ところで、一般的にパン種ってどのように使われるかご存知ですか?パン種の入っている生地を入っていない生地に混ぜ合わせて、まんべんなく交ぜ合わせてからそれが、それが全体に浸透して、増えると言いますか、膨らんでいくのを待ちます。そして、焼くときには、その全てを焼いてしまうのではなく、一部を残して、それを元にさらに増やしていく。ヨーグルトを作る方は、その感覚がわかるかもしれません。同じです。

このように肯定的にも、否定的にも聖書で使われているパン種ですが、種の特徴として最も注目に値することは、種には力があるということです。それは、良いことを象徴することもできれば、悪を象徴することもできるものです。イエス様自身もパン種を肯定的なものにも、否定的なものにも利用していたことの中に、パン種そのものを、否定するのではなく、それがあくの方向に用いられているときに、その用い方を否定していることをみます。つまり、偽善的になることや、間違った特権意識に対して非難していたことが伺えます。

人はその罪と愚かさゆえに、神様が与えてくださったすばらしいものでさえも、偶像としてしまったり、神様を第一とすることの妨げとしてしまったりします。肯定的にも否定的にも使われうるパン種が、もっぱら否定的な意味合いを持って使われていることもその現われです。

また、もう一つ特徴的なこととして、時間がかかる、ということがあげられます。収穫の時期など、時間が無いときには、種無しパンが好んで食べられるようになった、とも言われています。膨らむのを待たなければいけない。急に成長するものではありません。直物の成長もそうですが、じっと見ていても、その成長は目には見えません。しかし確実に、それは膨らんでいきます。影響を及ぼし、全体に染み渡っていくわけです。

種には力があります。満遍なく浸透していったときに、想像をはるかに超えた豊かな味わいを与えてくれます。力があるだけに私たちは気をつける必要があります。物事を腐敗させることもできますし、豊かな味わいを与えることもできる。それはただ、その力が何の力であるのか。何のための力であるのか。主のための力であること。主ご自身の力であること。働きであること。私たちのところにではなく、主のところにあるものであること。どんなパン種であるのかが問われます。そして、それがどんなパン種であっても、それは徹底して人に属するものではありません。7節。READ

このことは本当に律法主義的なまでにイスラエル人は徹底して行いました。過ぎ越しの前に、パンを食べたであろう部屋に小さなパン切れを置いて、鳥の羽と木のスプーンを持ってそれらのパンを拾い集めていきます。家中をはきだし、ろうそくをともして、隅々まで調べる。そして、残っていたパンくずを焼いて処分したことを証明する。

種無しパンの作り方にも徹底し、穀物の粉が自然に公募となることが無いように、パンは粉に水を加えてから18分以内に焼き上げなければいけない、とされていました。使える穀類の種類も、厳選され、また、その製造の団塊から貯蔵の段階までもが厳密に管理されていました。

形だけ整えるためであったことを象徴しているのは、彼らは、過ぎ越しの前に、家にあるパン種を異邦人に売り、そして、過ぎ越しが過ぎたらそれを再び買い戻す、と言うことをしていました。それも、本当の売買ではなく、形式上のものだけでした。

彼らは完全にその意味を見失っていました。その意味、というのは、先ほどから申し上げているように、主がすでになしてくださったことを覚えるためです。

7節で民のところに種を入れたパンがあってはならない、その領土のどこにあっても会ってはならない、と厳しいまでの基準は、私たちではなく、主の御業であることを覚えるためにも、視覚的に、パン種を自分たちのところからは徹底的に取り除かれた、と言うことが上げられます。また、パン種が罪を象徴するものとして、完全なまでの神様の基準がここに同時に語られています。主がモーセを通してイスラエルの民に与えられたしるしの意味の深さにはっとさせられます。

さて、もう一つは初子です。

初子の持つ最も大きな意味は何よりも2節にあるように、主のものである、と言う事実です。

神の聖さ、というのは、神のために分けられている。神のものである、ということです。混ざり物の無い、妥協の無い、100%主のものである、ということです。聖別とは、神のものとされる、神の子とされることですが、神ご自身が、まず、わたしの初子として、選んでくださった事実があります。出エジプト記の4章22節で「イスラエルはわたしの子、わたしの初子である。」と、すべてが始まる前から、神様がすでにその事実を述べておられました。神様のご意思と選び、ご計画の中ではじめて可能となったことです。

また、民数記の3:13で「・・・エジプトの国で私がすべての初子を打ち殺した日に、わたしは、人間から始めて家畜に至るまでイスラエルのうちのすべての初子をわたしのものとして聖別した。彼らはわたしのものである。わたしは主である。」とありますが、このことが出エジプトと深い関連のあるものであることが語られています。購いと聖別がはっきりと、分離することのできない、神様の御業の分けられない側面であることを教えられます。(つまり、購いだけはいただきたいけど、聖別はいらない、と言うことはできない。あるいは聖別されるために自分で購う、ということも。)

聖別せよ、と命じられる主ですが、それは、主のものであるから聖別するのであり、主のものとしてささげるから主のものである。それは主の主権と選びの中で与えられている特権です。主がなされた御業ゆえに主のものであり、主が聖別されたから主のものであり、そして私達は、それを主にささげることにより、実質上、主にささげることによってそのことを確認していきます。神様の主権の中で与えられている、私達の特権です。

それを覚えるために、13節からあるように、それは、主のあわれみの故であり、購いの子羊の故であることを今一度覚えるために、男の初子はみな、購わなければならない、とあります。購われなければ、やはり殺されていた。出エジプトは、主の御業であり、主ご自身が力強い御手によって、民を連れ出された、そのことを告白するものです。

そして、このことが、このことでさえも、イエス・キリストにつながっていくことを私達は見ることができます。

先ほどの民数記の3章の13節の前の12節には、「わたしはイスラエル人のうちで最初に生まれたすべての初子の代わりに、今これからイスラエル人の中からレビ人を取ることにした。レビ人はわたしのものである。」そもそも、神様がイスラエルの民を選び分けられたのは、出エジプト記19章6節にあるように「あなた方はわたしにとって祭司の王国。聖なる国民とするためでした。」とりなしてとしてとなるために選び出されたのです。

レビ人が祭司としてより分けられたのは、金の子牛の出来事の後です。それは、出エジプト記のこの記述を土台としていることです。この民数記の記述から、これは、出エジプトの購い、聖別とつながっていることを知ります。

そして、私達は、イエス・キリストが大祭司としてこられたことをヘブル書の中で見ます。油注がれたもの。メシア。旧約聖書の時代では、預言者と王と祭司が神によって選ばれる時、油注ぎがありました。預言者として、王として、そして祭司としてこられたイエス・キリストは神に言葉を託されただけではなく、言葉そのものとして、神の国の支配をもたらし、そして、ご自身が過ぎ越しの子羊とならられることによって、私達の罪のためにとりなし、ご自身がが購いとなられました。出エジプトを覚えるために、そして、このキリストの購いを指し示すために、神様が与えられた二つのしるし。

私達は、今はこの出エジプトに記されているしるしを行いません。しかし、今私達に与えられている二つのしるし、聖餐と洗礼に望むときに、出エジプト記につながる、神様のご計画の偉大さを覚えるものとされことを、今一度、そのことの意味の深さを知らされるものであれば幸いです。

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